免疫力を上げ、抗ガンやウィルス、感染症として国際特許を取得した成分【五葉の松種子エキスSPN(スパン)】、肌細胞を活性化し、炎症を抑え、アトピーやアレルギーに効果がみられた成分【松の実オイル(ピノレン酸)】などの五葉松の種子の総合研究機関[名古屋市]

一般社団法人 松の種子技術開発研究会

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わたしが 五葉松の種子の研究をはじめた きっかけ。

私の原爆体験〜世界平和を祈って〜

私が研究している抗感染症物質や衣類品(炭製品)の研究・開発を、ごく自然に始めた事を皆様にお話しするにあたり
私の生い立ちや「原爆体験」を欠かすことはできません。



1945年8月6日。広島市宗徳中学校2年(13歳)の時に被爆。


振り返ってみて、私は2005年の正月で73歳、何とはなしに生きてきたような気が致します。しかし、人様から見るともの凄い人生を生きて来られたですねと言われますが、私の人生で一番大変な時は、戦争中の東条秀樹時代が一番大変であった様に思われます。


1940年代に当時の軍隊は、子供に対して大人の男の恐怖の世界を押しつけていました。人間の一番成長をうながす子どもの時期を、東条秀樹戦犯は毎月8日を、日本は東洋の運命を変える日として、神社、皇居の遙拝、先生方の訓示などで、この日は2時間を校庭や道路の行軍でついやされました。小学校の一年から日本人の男として、または女の子として鍛われた事を、今70歳まで生きている人は知っていると存じます。何の為に元気で遊び回っている子供達を、大政翼賛会や軍事軍練と称して学校から連れ出され無ければならなかったのか。日本軍の一部の人が考えて行った事と思わざるを得ません。今だに、これらの軍人の亡霊が靖国問題を起こして、日本国民やアジアの人達を悩ましています。


さて、私は何故朝鮮半島の釜山で生まれたか。


父は明治初期に生まれ、20歳の頃、先祖より広島湾で行っていた家業の海運業と漁業を海外で行おうと考えたの様に思えます。2度も親の船を無断で朝鮮の釜山へ持ち出し海運業を始めたようです。父は大変無口で、私の14歳の時に原爆症と思われる病気で亡くなりました。61歳でした。しかし朝鮮で過ごした時代は、朝鮮半島沿岸の港の開発に努力したと聞いています。


幼い頃の父の仕事と言えば、40隻もあった船や、これらの船が大風や軍隊の仕事で時々沈みます。すると朝早い内より私の家の前に朝鮮人の長い行列が出来、男の人は頭に白い布を巻き、白い服を着て(朝鮮服チョゴリ)道を埋めてました。私は子供でしたから、その人達が道を除いてくれた所を分けて歩いて学校へ行った記憶があります。これは、今で言う「デモ」ですね、だから韓国の人は何でも物事を解決するには、その頃よりすでにデモだと言いますね。その様な事があり、小学校は、今の釜山タワーの下にあった神社で参拝の日を除いては楽しく卒業しました。が、中学校からは大変でした。毎日軍事訓練です、身体を鍛えると言う事でスポーツ選手と同じです、毎日疲労困憊で疲れて帰って困りましたね。


釜山中学校2年はじめ、軍の命令で、父母の出身地である広島に疎開して・・・その3ヶ月後に原爆の洗礼を受けました。


その時の状況は後文に書いてあります。
はっきり言って靖国へ戦争犯罪人と言われている人の合祀に私は反対です。戦争を起こした人の中から、誰かが代表してその責任を取るのは当たり前だと思います。この様な考えが、○○一家と言われる国民性ですかね。


此の原爆記は今から約60年前に広島とその郊外で私が見た光景であり、肌で感じたことです。原爆被爆者の記録は多くありますが、原爆が落とされた様子や原爆が破裂した瞬間や、その被爆者の様子を私の目で見た鮮烈な光景を書きました。



忘れられない、8月6日


 昭和20年8月6日朝6時30分。同じクラスの友人、横田君の家に行った。
「おーい横田君、今日は作業か?勉強か?」彼は作業に行くため軍靴のヒモを結んでいるところだった。
 私は前々日の8月4日、広島市舟入町での疎開作業中に足をケガしていた。宗徳中学1・2年生の一部や広島近郊の中学生200人近くが家屋の疎開作業のため、朝早くから夕方まで軍の要請で動員されていた。


 横田君は靴を履きながら「今日は、八丁堀で集合だ!」彼の声を聞き、私はケガをしていたので「勉強でないのなら・・・」と作業を休む事にした。私が元気な姿の横田君を見たのは、これが最後だった。
 私は足のけがの治療のため、8月1日まで弟が急性腎不全で入院していた広島日赤病院に、家族共々行く事になった。母、妹、弟と私の4人で、8時頃狩留家駅に向かっている途中、真っ青な空にお馴染みのB29が2機、高度1万m上空を白い飛行機雲を引いて飛んできた。
母は「あー、初めてB29を見た。なんとキレイな物だねぇー」と感心していた。
 そのB29から白い落下傘が3つ降りてきた。ふわー、ふわーと頭上に落ちてくるように
感じた。私はてっきり下から打ち上げる高射砲に当たってパラシュートで人が降りてくると思った。が、とんでもない勘違いだった。これは、この後に落ちる原爆の観測筒だった。
 「何だろう?」と駅に集まった人が話をしていると、もう一機B29がやってきた。高い空からみるみる大きな機体となり、そして飛び去った。


その瞬間フラッシュがたかれ、眼が光にさらされ、その光がやがて一点に集まった。


人間の眼はおかしな物で、光の走る方向に向かって動く。集まった光の中心は、白い光・青い光・ピンクの光。その光が集まって消える。すると、下から大きな真っ赤な太陽が上がってきた「えっ?太陽は既に上っているのに・・・2つも?」すると新たに上った太陽は、みるみる大きな大きな太陽になった。あとちょっとで丸く空に浮き上がると思った時、上の方が崩れてキノコ雲になり、だんだんと丸い光が消えて、高く高くキノコ雲が空に立ち上って行き、雲の中からキラキラ光るものが堕ちてくるのが見えた。


 この狩留家駅は広島から40分くらい、爆心地からは約20km離れた田舎の駅だが、「ピカー」っと光ってから数分して「ドカーン」と音がし、駅のガラスが割れた。これが「ピカドン」のいわれである。
 それからが大変だった。40~50人くらいの人々が線路を渡ったり、右往左往の混乱状態。何が何だかわからないうちに、広島方面と思われるところから、煙や火が見えた。
 まさか、原爆で市内が壊滅状態だとは、その時全くわからなかった。午後4時過ぎ、広島方面より列車が入ってきたので、私は走って列車に向かった。石炭を積む貨車まで人が一杯、窓からケガをした人たちが大勢見える。狩留家駅で下車した人たちを見ると、顔は真っ黒、モンペは破れ、女性の髪はチリチリに焼け「一体、この集団は何なんだ?」と思っていると、学生が4~5人降りてきた。その姿もやはり服は破け、真っ黒な顔面に大きな目だけがぎょろりとしていた。まったく人間の模相ではなかった。ふと足下に目を向けると、今朝会った
横田君の靴に似ていた。まさか、横田君がこんな状態で帰ってくるとは考えもしなかった。
 一団がそれぞれ帰って行く中で、娘さんらしき人が「お母さん!」と1人の女性に抱きついた。母親はただ驚くばかりで変わり果てた娘を抱えるようにして連れて帰って行った。
 6時頃に、私の前を通って帰った学生が、横田君だとは判らなかった私は、横田君の家に行ってみた。すると、布団に寝ている真っ黒な人間が、横田君だと言う。「おおっ、どうなってるんだっ、いつ帰った?」と彼に聞くと「おまえの前をさっき・・・通った。」そして、苦しい息をしながら「何か判らんけど、爆弾にやられた・・・皆チリチリだ。戸坂を通って線路を歩いていたら、後ろから列車が来たので乗った・・・」これだけ言うのが精一杯だった。彼の黒い眼以外が赤黒く腫れ上がった顔を見ていると、私もこれ以上、言葉が出なかった。


 その晩から次の朝にかけて、少しずつ広島に行っていた人が歩いて帰って来た。どの家も泣き声でいっぱいだ。疎開をしていた私の家でも帰らない者がおり、翌日から市内へ捜索しに山越えをする人たちが続いた。2日後くらいから汽車が矢賀駅までは行くので私と母はそれに乗り、帰って来ない親戚のおじさんやおばさんの消息を確かめるため、二人で広島へ行った。矢賀駅で汽車に乗り、大正橋を渡った途端、目の前に似た島・宮島が手に取るように近く、福屋百貨店。日赤病院もすぐ近くに見えた。


周りは一面焼け野原だ。八丁堀近くへ来たとき、真っ赤に焼けた電車が美しい様な色・形で3台、紙屋町までの電車線路の上に、そのうち一両は脱線していた。電車の中は、白骨で一杯。頭蓋骨だけが真っ白で、たくさんの骨の上に、まるで陶器のように光っていた。それは、子供心にもこの世とは思えない光景、赤と白のコントラストだった。


 何が起きたのかさえ判らなかった。
いつもの爆弾がまとめて落とされたのかと思っていた。


広島駅~横川駅間に常磐橋という橋があり、10日ほど後にその立派な欄干の袖に「アメリカが広島に特殊爆弾を投下した」と張り紙が貼られていた。それが「原爆」だった。
 何もない焼け野原。真っ赤な電車。人はほとんど歩いていない。母と私は親類を求め、日赤までの長い道のりを歩いて行った。・・・遠かった。
 やっと、日赤に辿り着くと、知り合いの娘さんがベッドで寝ていた。日赤の電話交換をしていた人だが、眼だけを残し、全身包帯で巻かれていた。あの美しかった人が・・・と思わず息を飲んだ。母に「おばさーん、私・・・」と涙を流す。母は「何か欲しい物はないか?お母さんは?お姉さんは?」と尋ねたが、全く消息は判らない。彼女はやっとの思いで「みかんが食べたい・・・」と言った。


 私は昭和20年5月までは朝鮮の釜山で戦争も疎開作業も知らず、鞄を背負って釜山中学に通っていた。ところが軍の命令で、釜山市の中心部の者は急いで疎開するよう言われ、広島に疎開をしてきたばかりだった。まさか、このような運命の遭おうとは考えもしなかったのに。


 日赤に勤めていた伯父も全身に火傷を負っていた。伯父の話では外に出た途端に光にやられたという。全身の痛みに耐えて寝ているようだった。辛いにも楠木町の家で被爆した叔母は無傷で伯父の世話をしていた。しかし、その伯父も10日後に死亡。前述の娘さんも翌々日、釜山から持ってきた缶詰のみかんを届けに行ったら亡くなっていた。

原爆は、即死をした人が一番安らかに死ねたと思う


私の中学1・2年生は原爆死として、600人中541人が亡くなった。今では何人生存しているのだろうか、癌などに冒されていなければ、生き残っているのかもしれない。私の知る限り、東京に3人生き残り組がいたが、そのうちの1人は2年前に喉頭癌でなくなった。彼はサイパンから疎開してきた私の出席番号のひとつ前だった河村君。
 彼は明大卒業後、莫有名生命保険会社の勤めていたが、会社を退職するまで、原爆に遭ったことを明かさなかったそうだ。被爆者は広島では珍しいことではないが、東京では「出生に響くから言えない」と言っていた。


 彼はその日の朝、己斐駅(現在の西広島駅)で、何となく八丁堀に行きたくなくて、駅に長い間座って考えことをしていたが「言ってみるか・・・。」と重い腰を上げ、列の最後の方で物陰に隠れるように並んでいたという。「整列!」という声を聞いたが、すぐには立ち上がらずにいると、ピカーっと光って真っ黒となり、後は何がなんだか判らず、気が付けば道路に並んで点呼を受けていた。多くの生徒はいなくなっていた。
 やがて、遠くに飛ばされた生徒や、道の端の方に叩き付けられている生徒が目に入って来たそうだ。学校の方に逃げ、横川を廻って己斐まで来たが、郊外電車が動かないので座り込んでいたら、夜になって全く偶然に家の近くの人がリヤカーを持って通りかかった。その家では、息子が不明なままなので、ケガをしていたらリヤカーで運んで帰ろうと思って3時間ほどかけて探しに来ていたのだった。“千載一遇”このお陰で河村君は生き残れた。宗徳中学校の疎開作業に従事した生徒の内、生き残ったのはたった二人、河村君はそのひとりであった。
 その後、河村君はどうなったのか、廿日市の家に行ってみた。被爆後5日目くらいだった。彼は裸で布団の上に寝かされていた。半身火傷状態で、赤身が出て頭も顔も半分焼けていた。当時は薬が無いので、野菜、主としてジャガイモ・キュウリ・ダイコン等水分の多い物をすりおろして火傷の上に塗ってもらっていた。「おい!」と声を掛けても「ウンウン」と言うだけだった。彼のお母さんは、私を見て「吉原君はどうして助かったの?」と聞くので、「二日前、作業中に足をケガして当日休んだので助かった。」と告げると「良かったね。」と言いながら、河村君の看護をせっせとしていた。


 疎開作業に従事していなかった生徒たちは、運良く生き残れたのが・・・。
 後日のことだが私の組で、器械体操の鉄棒が得意な生徒がおり、彼が車輪等をして見せてくれたことがあった。しかし、身体が鉄棒に当たったところが青くアザになった。彼は、白血病に冒されていたのだ。外見上、全く無傷で一見して何ともなく見えても、放射能を浴びてしまうと中性子にやられ、やがて全身に青アザが出来、髪が抜ける。そして無力感に覆われ、数日後には死亡すると言うのが原爆当時の有様であった。


 原爆投下後、何回か日赤の伯父のところへ行ってみた。伯父は腕の皮膚の下にウジ虫が這っていて、それが「肉をつつくので痛い」からと、私にピンセットで取ってくれと言うのであるが、水膨れとなった薄い皮膚の下を泳いでいるので、なかなか捕まえられなかった事を覚えている。


 日赤の裏庭に集められた死体の山に油をかけ、材木を積み上げ火をつけたと言っていたが、当時、広島の街は死臭が充満していた。
 3ヵ月後の11月頃のことである。自転車に乗った男が廿日市の家(当時、狩留家と廿日市の両方に家があった)の裏木戸をドーンと乱暴に開けて「オッス」と入って来た。死んでしまったのだろうと思っていた河村君だった!彼の身体はあちらこちらに包帯を巻いて頭の半分の髪が抜け落ちていた。「11月から学校は始まっているんだぞっ、おまえも出て来い!」「えーっ?河村?おまえ生きていたのかっ?てっきり死んだと思っていたよ!」学校は臨時に土橋の「光道館」を使っていた。先生の数はまずまずだったが1・2年の生徒は数えるほどしが居なかった。3~5年生は市街の軍需工場で働かされていたので死者は少なく、ある程登校して来ていた様に思う。
 二階の窓から見た光景を今でも私は思い出して笑う。先生の頭は髪の毛が黒い。しかし、生徒特に1・2年生はほとんどハゲだ。原爆の放射能で髪が抜けてしまったのだ。それを見て、先生と生徒どちらが年寄りなのか判らなくて、思わず笑った。
 そしてその後、私の父は広島市内を歩き回ったため、翌年、高熱を出してあっけなく亡くなった。あれほど、盛んであった父が、医者であった兄(軍医は戦地から早く帰って来ていた)に見守られてあっという間に逝ってしまった。
 その後、兄には家庭があるということで、母と弟と妹の生活をみることが私の肩に掛かって来ようとは、まったく思いもよらないことだった。
 私は、医大を受け損なって鍼灸師の試験に合格したものの。3年の実施治療後、肺結核になって休んでしまった。その時は胸と背中にお灸を母にしてもらい、自分自身の力で元の身体の戻ったのである。

植物のもつチカラは、原爆にも効いた


 ジャガイモ・ナス・キュウリ・サツマイモ・ダイコン等をおろし金で摺りおろし、そのペースト状の物を皮膚の火傷部分に塗布し、免疫効果を上げるために灸をする。
 同級生の河村君は、この様な植物で助かったが、当時の医薬品である白い塗り薬を塗った被爆者は殆ど亡くなったと申し上げたい。


原爆の放射能に対しては野菜が薬になり、灸はその熱の刺激で免疫力がアップして元気を取り戻す。五葉松の種子にはその両方を兼ねた物質が入っている。
 木の皮・種子、植物のどの部分が良いのが不明ですが、放射能に対しても喉の付近の甲状腺にも私の開発した物質のうちひとつが廉価で使い易く、ペースト状にして貼付すると良い。チェルノブイリの原爆事故時にも広島の医師により私方も協力し、福山の会を通じてお菓子にしたもの等を送りしました。


 また、数年前東海で放射能漏れの汚染事故があった時、最初の被爆者が担ぎ込まれた。放射能医科学研究所の色田幹夫先生が以前「松の種子は放射能にも良い結果が出せるのでは。」と、私の分析表をご覧になり言われました。


 五葉松の種子殻から抽出した物質は植物では世界初のウイルスに有効な物質でした。これは酸性多糖類の仲間で我が社の名前を冠して「SPN」(Sunshow Pine Nuts)と名付けました。
厚生省国立予防研究所武蔵村山研究所で試験管実験ではエイズウイルス・ポリオ・ヘルペス・食中毒・肝炎など、ほとんどのウイルスに有効であることが判明したが、残念ながらこの種子のどの部分がウイルスを消しているのかが特定できず、日本の厚生省は「やはり健康食品でしか販売はできませんね。松の種子は世界の医薬品や医薬品原料に載っていないので厚生省ではクレームは付けられないから薬事法に気を付けて。」との事であった。


 私は五葉松の種子加工品として、白い実は油に、外敵から身を守る力のある殻からは、酸性多糖類を抽出した。それらを混合して、カプセル・ドリンク・粉末の原料を作り、食品・菓子・飲料を身体に問題のある人たちに提供した。残った種子の残滓物を炭化する為に炭化炉を作り、松の種子殻炭(松果炭)から、綿・糸・繊維製品・寝具・塗料・インク・魚具類育成礁、つまり山の木を炭にして魚礁の中に炭を混合し、海洋を浄化、時には昆布が自生する事も確認している。また、炭を加工した綿を応用して煙りを簡単に消す方法も考案しました。




 松の中の王様である五葉松の力を、その植物の力を試すのは、まだまだこれからだ。




73歳の私は100歳まで、まだ30年もある。
原爆生き残りの私は、毎日仕事と研究開発に熱中しており、今なお青春している。


 しかし、私は3年前に松の木の調査で中国四川省の山奥に行き、高山病に羅りました。これが引き金となり、それから3ヶ月ほどしてヘモグロビンの減少により体力がなくなり、週に1~2回の点滴をしなければならなくなりました。8月に愛知県の薬務課から、原爆症のひとつとしてヘモグロビン減少は新しく原爆による病気であろうと通知がきました。


 被爆から58年過ぎてから、このような症状が現れるとは考えて見たこともありませんでしたが、放射能の半減期は数十年から数百年であることを改めて知りました。
放射能物質を使う現在の医療が人体に及ぼす影響は50年100年後までの事を考えて利用して欲しいと切に願います。


 以上、私が遭遇した原爆の体験です。現代を生きる若者達にも、過去にこのような悲惨な出来事があったことを記憶にとどめておいて頂きたいと思います。



平成17年
健康科学哲学博士  吉原 将純(遺稿)

原爆追悼式典 愛知県代表/挨拶文


私の家族は 全員が被爆者です。

なかでも兄は 二中の学徒動員で 
爆心地のそばの本川の土手で 作業中に爆撃を受け 
いまだに遺骨は出ておりません。

父母は 幾日も幾日も ひとつひとつ死体を確認して探したそうです。
その時の父母の気持ちを考えると 胸が詰まる思いです。
その父母も 癌を患い亡くなりました。

爆撃を受けた当時 主人は十三才 私は四才でした。

主人は その時のことを鮮明に憶えており
いろいろと話してくれておりました。
わたくしは とにかく恐ろしかった という事しか憶えておりません。
幸い二人とも この歳までつらい症状もなく過ごして参りました。

ところが昨年八月 主人は急に免疫力が落ち 帰らぬ人となりました。
検査入院で 癌が発見されたときには体のあらゆる臓器に転移していて
手がつけられない状態になっておりました。

奇跡的に 何の痛みも感じることなく亡くなったのですが
主人は研究者でしたので まだやり残したことがあっただろう と
非常に残念に思い 世の無情を感じます。

主人の全身が癌に冒されたのは 残留放射能のせいでしょう。

一発の爆弾で 広島の街を全滅させた上 人々の体の中まで侵し
六十年余りたった今でも 被爆者は
いつ表れるか判らない病気に苦しみ、不安をいだき続けています。

政府関係者の皆様
核兵器の廃絶を 私たち日本人が訴えないで誰にできるでしょうか。


子どもたち 可愛い孫たちが 安心して生きていける世界を
早く実現して欲しいと 心から祈っております。




   二○○八年七月十六日
       愛知県代表(名古屋市北区在住)  吉原 京杞





■2008年8月5日付・中国新聞朝刊
■2008年8月7日付・中国新聞朝刊
■2008年8月6日付・中日新聞夕刊
■広島市長様 ご挨拶文